ふわふわとした愛だけ

 

 

疲れた顔や声すらもうつくしいと思ってしまうのは、とてつもないわたしのエゴで、わたしと彼の間にある残酷で決して超えることのできない境界線だった。ねえ、ヒチョンさん、わたしはあなたが差し出したものをほんとうに都合のいいように利用しながら生きているみたいです。それは、僕たちをみて、ただ楽しんでください、というヒチョンさんにとって本望なのでしょうか、、。

 

でも、わたし、ほんとうは、ヒチョンさんに幸せであってほしいと願っている、これは、絶対的な本心で。

不安とか恐怖とか、そんなものたちが彼にまとわりつくことのないようにって、のびのびと仲間たちとやりたいことをやれますようにって、祈っていて、それはもはや、少し、呪いのようでもあった。だけどそんな概念では、彼の不安も恐怖も拭ってはあげられないし、肩にかかる重さもかるくはしてあげられないから、じぶんの無力さに、画面の前でただ泣いたのです。そしてその直後、彼の話してくれる言葉の、わたしがそのまま受け取れる言葉たちの、その後ろで、いつも彼がすごくエネルギーを消費していたことを、彼自身を削っていたことを思い知らされて、さらに泣いたのでした。
海の向こう、だいたい1000kmの距離が私たちに与えたのは物理的な距離だけではなくて、とてももどかしいけれど...国や言葉を、生まれたときには選べないものを、絶対に怨みたくはないから、同じ国だったらなんて絶対に言いたくないから、言わないから、もどかしいその距離すらも、わたしはあいしたいとおもう、   。(決意表明?)

 

ヒチョンさんの好きな人の範囲がどこにあるのか、私にはわからないけれど、ステージのうえに立つことが、彼にとって仕事でありやるべきことなのだとしたら、それを期待しているわたしみたいなちっぽけな存在も、好きにほんのすこしだけでも、一粒のその欠片ぐらいは入れるのだろうか、なんて、どうしようもないことを考えてしまったというのはここだけの話...。
なにかを発信したり、人前に立つということは、期待や好奇の目に曝されて評価を受けることとイコールで、その度にいろんな人が其々の反応を示すけど、どうか、彼の、彼らのもとには暖かくて優しくて、これからの翼になるような、まだまだ飛べるって思えるものだけが届きますように...どうか、聞こえのいい期待という言葉に包まれた、彼らを閉じ込める箱が、届きませんように...自分のために生きることができますように...そんな祈りだけがふえて、実際にわたしができることなんてほとんどなくて、 。(そもそも、なにかができるなんておもうこと自体烏滸がましいのだけど...)

 

華奢にみえる、その背中が思ったよりも広くておおきくて、そこから溢れる「うちの子」への愛に、彼の優しさと愛情を知って、その背中を追いかけて、彼の周りには仲間がいるのだろうな、と思った。でもきっと追いかけるだけじゃなくて、たくさん支えたりもしているはずで、だからヒチョンさんは前かがみじゃなくていいんだよって、届かない場所だから無責任に言葉を残せるのだけど、でも、そう思うのです...。
さいご、ひとはひとりだから、後悔しても人のせいにはしないように、というのはとても大切なことだけど、そんな後悔も、楽しくていい未来をみんなで迎えるように、分かちあうことはできるとおもうから。もちろん悔いのないように生きれたらそれがいちばんいいのだけれど、にんげんは後悔する生き物なので、せめて、その悔いのなかにも暖かさをもたせたい、とおもうよ。


そして図面上は無限に引けるマイナスも、ひとには限界があるから、反比例の法則でできあがった幸せは、きっと永くは続かない。だから、わたしは、誰も損をすることなく、みんなが幸せであってほしい、。なんていうのは理想論で、ヒチョンさんの言葉よりよっぽど偽善的だけど、でも、誰かの幸せのために、誰かがつらいのは、とてもかなしいから。この先の楽しい時間が、ヒチョンさんにとっても、楽しい時間であるように、と、希ってやまないのです。

 

 

 

祈ることしかできないわたしは、今日も呪いのような祈りをこめて、眠りにつく。どうか、彼に届く愛が、暖かくてかるい、優しいものでありますように。

 

 

 

2020.7.20  えわ