あいと矛盾

 

 

一緒に暮らしている人のことすらもよくわからないのに、画面越しでしか知らない彼らのことなんてわかれるはずもなくて、それなのにみせてくれるその一面だけで、想ってしまう、縋ってしまう。それが、今の距離だった。


泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだり、彼らはとても遠くにいるのに、うごかされる感情はとてもゆたかで身近だ。
それらをまとめたとき、好きという言葉では溢れてしまうけど、愛していると、なにもできないわたしがいうのは、あまりにも無責任で乱暴で、できなくて。

でもこういうとき、日本語はとても便利だから、あいしている、というひらがなにすれば、なぜか許される気がしている、それは多分、あいしている、という文字の長さにみえる未熟さやぎこちなさのおかげだった。

こうして綴る言葉たちは、わたしにとって恋文ではないけどラブレターではあって、でも届かなくていいと心の底から思っている。わたしの幸せであれという無責任な思いは、そんな乱暴なエゴは、絶対に届かなくていい。
だから、届かなくていいから、どうか、彼らにとって大切な人に愛されて、そして愛して、痛みを感じることがありませんように。

 

 

綺麗な部分だけをみせてなんて思ってない。でも、つらさとか怖さとか、そんなものをかかえてるのだってみたくはないのだ。とくにわたしたちのために何かをしているせいで、それらをかかえてしまうのが。ほんとうは、みたくないというか、そんなものたちが彼らの近くに存在することが嫌なのだけど、にんげんだから、それはしかたのない話なわけで、でも、それでも、できるだけ、そういうつらさとか怖さとか、痛みを感じないで生きていてほしい。なんの宗教にも属していないけれど、こんな時だけは神さまとよばれる存在を頼りたくなるのです。


神さま、どうか、彼らにやわらかくて暖かな祝福を...

 


わたしにできることなんてほとんどなくて、その事実を思い知るたびに、落ち込んでは、こうしてネットの海の片隅に言葉をポロポロと零し、みたされないもどかしさを誤魔化しているし、勘違いの愛はきっと彼らを押し込める箱になってしまうから、それだけはやりたくなくて、でも彼らは他人からの関心を得てこそ成り立つ仕事をしているからなにもしないのも違う気がして、矛盾だらけのまま、今日も生きている。
わたしのあいは、偶像視することで成り立っているようで、
あいするということは、祈りで、そして呪いだった。
だから、彼らはこんなわたしのことは、知らなくていい。知らないでほしい。

 

彼らが知らないわたしは、平行線の片側で、今日も彼らをあいしている。


欲をいえば、わたしのあいの、きれいな部分だけ、名前のないまま彼らに届いてほしいけど...

 

 

 

2020.7.22  えわ