なんでもない秋の日に

 

なんでもない秋の夜だけど、今日は、私にとってはすこし、もしかするとだいぶ、ちょっとだけ特別な日で、今はもう会うことのない人の、誕生日だった。

もうすぐ、一昔と呼ばれる時間が経つあの頃、私はまだこどもで、反抗期で、うまく受け入れることも、悲しむことも出来ず、ただ事実だけがそこにあった。多分ほんとはあった感情はどこにもいけず、ただ蓋がされて私のなかにしまわれた、のだと思う。
悼む、ということは事実を私のものにすることで、蓋をした感情と向き合うことと同義だったから、毎年やってくる命日と誕生日が、いちばん嫌いだった。いない人を純粋に悼む人たちに囲まれて、自分の居場所がないように思える年もあったし、学校のイベントと重なって、周りの明るさにすこしだけ後ろめたい気持ちになった年もあった。

すこしずつ大人になったから、憂鬱でも、なんでもないように過ごすことができるようになってしまったけど、やっぱり、なんでもない秋の日は、ずっと私にとって憂鬱な日だった。
今年までは。

初めて、誕生日に花を買った。お彼岸に合わせてお墓まいりに行った。悲しみたい私と、ようやく向き合えた気がした。


それはたぶん、ヒチョンさんやおるびのおかげ、だった。
離れている人を想うことが、会えない人を想うことが、決して寂しいことではなくて、会えなくても祝うことができて、寂しいと感じたじぶんのきもちは自分のもので、素直に受け入れていいのだと、ようやく、思えるようになったのは、そう教えてくれたのは、出会ってからの、この、半年と少し、だった。
この先で、会える、会えないの違いは大きいけれど、もしかしたらこういう風に並べてしまうのは、失礼かもしれないけど、でも、ほんとう、なのだ。

やっと、悲しいと泣けるようになった。素直におめでとうを想うことができるようになった。きっともうすこし後の命日には純粋に悼むことができるでしょう。

ありがとう。私の人生に現れてくれて、ありがとう。たくさんのきらめきと一緒に、やさしさを届けてくれて、ありがとう。誰かを想うことの素晴らしさを、教えてくれてありがとう。

これは彼らにはなんにも関係のない場所でおきた、私にとって、とても大きな出来事。
彼らがこれを知ることはないけれど、こんな勝手に背負わされた激重感情は知らなくていいけれど、でも、残しておきたいと思うよ。

やっぱり、だいすきだな。ずっと。

 

 

 

2020.9.20  えわ